斎藤の小噺

漫画描きの日記

夜半⑥1

人と会って遊ぶのは思い出という物体を分配する事だ。それを持ち続け、自分の一部に出来る人間は後からそれを取り出して「あの時楽しかったね」という話が出来る。それが出来ず、人とさよならをして手元のその物体が砂になって足元に落ち風に吹かれて消えるのが自分。虚しくてたまらない。

 

自分は納得しないと受け入れられない人間らしい。でも納得すべき事が何かはきっと分かってるんだと思う。

 

あの娘からの連絡が途絶えてから「自分は本当にあの娘が好きだったんだろうか」と考えるようになった。でもこれはそこに迷いが出来たのではなくて「あの娘から連絡が来なくなった」という事象があって、「ならばあの娘はもう自分と会う価値を見出していないのではないか」と考え、それを納得する為にそういう事を考えていたのだ。

「現実は受け止め納得するもの」であり、
自分が納得した自分にとって理不尽な事実が並び立っているのが自分にとってのこの世界なんじゃないか。
故に自分にとって良い事実は受け入れ難い。
とても納得出来ない。すべきでないと考えているのではないか。

 

何故か?
自分は今、
「自分が納得した理不尽な事実しかない世界」こそがこの世界だと納得している事になる。
きっと、容姿、境遇、生まれ出て与えられた数々のものが自分にとって不都合だったからではないか?母親は物心ついた頃にはいなかった。周りの子供は両親に挟まれて歩いていた。自分には父親しかいない。「何故」と考えた事は覚えている限りは無いし、すぐに受け入れていた気もする。そういう「事実」を納得するにはそう考えるのが手っ取り早かったのではないか?


その中で「絵が描ける」というのは誰に与えられる事もなく自分で培ったものであり、
「漫画家になる」夢は自分で決めた事だからこそ、この2つは自分で決め納得出来たからこそ自分の人生の依代になっているのだ。

 

「自分が可哀想だと思えれば、それを改善する為に頑張る事が出来る。」
当初、担当さんにはもっと高圧的な態度でいてほしいと理由もなく思っていた。その理由はきっとそれだ。
だから担当さんに嫌われるように仕向けていた。無駄だったけど。

そういう事を考えていると全て必然である様に思えてくる。


全ての事には意味があるのかもしれない。
ただ、振り返っての結果論だから実際は意味を後付けしているだけだ。

 

そしてこの長文は僕が今、僕を可哀想だと思う為の儀式である。

それは為された。