斎藤の小噺

漫画描きの日記

昼間.52

◯今読んだら心が救われる物語

それは「世界を"捨てる"物語」なんじゃないかと思う。少なくとも僕はそれで少し救われるかもしれない。

それに近いのは「天気の子」「進撃の巨人」「ガチアクタ」「ヴィンランド・サガ」。

天気の子や進撃の巨人、ガチアクタは「(己や他者を救わんと)世界を変える話」、ヴィンランド・サガは「(この世界に居場所がないから)新しい世界を作る話」。

 

◯僕にとっての社会

僕の世代(若いと言われる人たち)は社会に関心が無いとよく言われるが、実際はそうでなく、僕の世代とそれ以前の世代では"社会"という言葉の持つ範囲が違いすぎるのだと思う。

つまり僕の世代の社会とは、目に見える、或いは目に入ってくる社会(目まぐるしく更新される相対的な自己評価)なのだ。それに気を取られるあまり国という意味の社会に割く心の余裕なんか無くなっているんじゃないだろうか。

 

僕は本屋に行くと「これだけ漫画があるなら僕は描かなくていいだろう」と思うし、SNSで自分より上手い人、面白い漫画を描く人をごまんと見る度に筆を折ろうとしてしまう。

 

常に世界と対峙しているという意味では、こんなに社会に関心のある世代なんて僕ら以降なんじゃないかと思う。

生まれた時から自由な筈なのに、他人と関わろうとする度にどこにも行けなくなってしまう。

やりたい事ややってみたい事は、萌芽が土の中に生まれた瞬間に「もう既に発芽しているもの」と比較されてしまう。

自由はあるが、それを選べない。

 

◯絶対的な自己を誇示できない

「他人による相対的な自己評価」が絶対の社会にいる限り、息苦しいままであると思う。他人による絶対的な評価は常に可視化される。他人はより良く、自分はより悪く見える。

 

◯脱却が必要、でもその先はわからない

だから必要なのは「この世界を捨てること」なのだけれど、今の僕にはどうすればいいのかわからない。

 

「他人による相対的な自己評価」の世界からどうやって抜けて、どこへ行けばいいんだろう。

 

そもそも社会(他人)と関わりたくないわけではない。勿論多くの人間と関わりたいかと言われればそんな事は無い。でも少なくとも僕は1人じゃ生きていけない。

そもそも他人がいなければ自分が分からない。評価というのは相対的なものだから。

でも他人の評価に晒される前に、自分で自分を認めてやらなくちゃならない気がする。

「僕は僕の事をこう思うが、他人からはああ思われているらしい」という事が前提にあって、その擦り合わせに苦心すべきだと思う。その方が健全だ。

しかしそんな準備をするより先に、世界に足を踏み入れざるを得ない状況にある。

 

だから、その準備が出来なかった僕は、こんな世界とはおさらばするべきなのだ。

でもどうやって?この世界と別れてどこへ行けばいいのか?それらが分からない。

その「どうやって、どこへ」の答えがきっと僕の、未だ分からない生き方なんじゃないんだろうか。