斎藤の小噺

漫画描きの日記

昼間.45

確かに...「悲しい過去があって非道い人間になった」って、感情移入しやすいし可哀想になって雰囲気出るからよく見るけど
とても性善説的だし、全員が全員そうなのはちょっと個人的に嫌だな
むしろ最初から「非道い」人間でも変われる、幸せになれるかもっていう方が希望がある。

(日本橋ヨヲコさんのツイートを見て)

昼間.42

「やっぱりそうなのか」と思ったのが、藤本タツキ作品って"行間を読む能力"が他の作品に比べてかなり必要とされると思ってて。絵だけで見せるってそういう事なんですけど、逆に行間を読み取れない人はかなり物足りなく感じる。モチーフに意味を持たせる、或いは汲み取れる人じゃないと持たない。

だからルックバックを読んで、人の感想を見てて「読者のレベルが自分が思ってるよりも全体的に高いな」と思った。でもそれは"行間を読める"人達の感想しか見てなかったって事で全体の印象じゃない。優劣の話ではなく向き不向き。すべきの話をするなら本当は少年漫画なので最低限は言葉にすべきだと思う

そこを言葉にせず、映画的にも見える絵で表現するのが新しい素晴らしいところなんだけど、それだけだと多分半分かそれ以上の読者からすると何のこっちゃわからない(なぜなら映画には音楽も声もあるから)。それを無しで表現しきれてる、或いは作品として完成しているのがあの人の才能なんだけど...

だから"最低限作品を楽しむためには他作品を読む時の必要以上に積極的な想像を強いる"というのが、藤本タツキ作品の対象じゃない読者の、藤本タツキ作品に対する印象じゃないだろうか。

本来エンタメは逆です

(何も無しで楽しめる)→(想像して楽しめる)

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藤本タツキ作品

(何も無しで楽しめる)→(想像して楽しめる)

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藤本タツキ作品がどうして人を選ぶのか僕なりの言語化でした。

夜半.58

僕は小中時代に他に自分と同じくらい絵を描いている人がいなかったから、ああいう事は無かったけれど、小学生の時同級生に「絵なんか描いてても将来なんの役にも立たないよ」って言われたのはハッキリ覚えてる。今思うと、あの娘も絵を描くのが好きなのに親や友達にそういう事を言われたのかもしれない。

家でも勉強せず、ひたすら漫画や絵を描いていた(この頃すでにコマを割っていた)し、親含め周りの人間に「漫画家になる」と言いふらしていたところ、親には「お前は将来鳶職になる」と言われていた。

だからどうという事は無いが、そういう事があった。きっと親も僕を諦めていたのだと思う。だから高校も好きなところ行けよって言っていたし、その後お金に関してぐちぐち言われた。

とりあえず、もはや顔も名前すら覚えていないその娘の為にも漫画家になろう。

黄昏.11

『ルックバック』、映画的な表現という話を色々な方がしているけれど、あれが実写の映画でやっていても僕は多分見ないと思う。なぜなら面白くないから。内容はともかく画が普通すぎて。あれは漫画だから読める。そういう意味でも"漫画表現として"素晴らしいものなんだよな。