斎藤の小噺

漫画描きの日記

昼間.42

「やっぱりそうなのか」と思ったのが、藤本タツキ作品って"行間を読む能力"が他の作品に比べてかなり必要とされると思ってて。絵だけで見せるってそういう事なんですけど、逆に行間を読み取れない人はかなり物足りなく感じる。モチーフに意味を持たせる、或いは汲み取れる人じゃないと持たない。

だからルックバックを読んで、人の感想を見てて「読者のレベルが自分が思ってるよりも全体的に高いな」と思った。でもそれは"行間を読める"人達の感想しか見てなかったって事で全体の印象じゃない。優劣の話ではなく向き不向き。すべきの話をするなら本当は少年漫画なので最低限は言葉にすべきだと思う

そこを言葉にせず、映画的にも見える絵で表現するのが新しい素晴らしいところなんだけど、それだけだと多分半分かそれ以上の読者からすると何のこっちゃわからない(なぜなら映画には音楽も声もあるから)。それを無しで表現しきれてる、或いは作品として完成しているのがあの人の才能なんだけど...

だから"最低限作品を楽しむためには他作品を読む時の必要以上に積極的な想像を強いる"というのが、藤本タツキ作品の対象じゃない読者の、藤本タツキ作品に対する印象じゃないだろうか。

本来エンタメは逆です

(何も無しで楽しめる)→(想像して楽しめる)

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藤本タツキ作品

(何も無しで楽しめる)→(想像して楽しめる)

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藤本タツキ作品がどうして人を選ぶのか僕なりの言語化でした。