斎藤の小噺

漫画描きの日記

昼間④3

「仲間を大切にすべき」という本があるのなら、同じ数だけ「仲間なんていらない」という本があるべきだと思う。

 

なぜなら偏った思想の送受信はそれが正しいものであったとしても攻撃に転化し、危険思想となりかねないからだ。

 

例えば「仲間を大切にすべき」という疑いようの無いテーマであっても、各々の心の中で「仲間は大切にすべき」になり「仲間ではないから、あいつに石を投げてもいい」となる可能性はあり得る話であるし、おそらく、ある話だからだ。

「仲間」への想いはそれだけ部外者への強い差別に繋がるし、仲間に向けられる優しさは部外者への冷たさになる。部外者への攻撃も仲間のための正義なのだと正当化できる。

そうして他人の心への想像力が欠けていく。

 

選ぶ事が他人への想像力を育む事に繋がらないだろうか。少なくとも僕はそう思いたい。

「選ぶ」というのは少なからず想像する必要があるからだ。そして選んだ責任は当人だけが背負うものであると僕は思う。そうなれば選択への思考も深くなっていくんじゃないか。想像力も育つのではないだろうか。

流されてする選択というのは、考える必要が無くて楽だからこそ、他人の言いなりになりやすい。人は頭を使うのを面倒くさがるから。僕だってそう。

だからこそ他人に無闇に攻撃せずに済むように、想像し選択するべきなのだ。どちらが正しいのかではなく、どちらを選ぶとどうなるのか、そして自分はどうなりたいのかを。

どうせなら、かっこいい、なりたい自分になりたいじゃないか。

 

なので偏った思想だけではなく、

選択肢を与えられるだけの材料を用意すべきで、その重りを乗せる天秤を絶対に錆びつかせてはならない。

自戒。